Kzhr's notes

May 15

“凡ソイマ古書ヲ引テ証トスルヿヲ定説トスルトイヘトモ。其古書トイヘルモノモ。其ハシメハ世ニ伝フル所ノ口授ノヨキモノナリ。” — 新井白石著,新井白蛾校『同文通考』巻2,28ウ

Apr 03

明治時代の仮名に関する研究のほとんどは字体数の減少に焦点があり、それ以外については未着手のものがおおい。以下においては、字体数の収斂に関する現段階の達成を確認したい。

平仮名史上において、明治時代は、一音一字の体系が確立した時代として知られるが、前時代までの多字体体系からこのような体系にいたったについて、既存の研究には、㈠淘汰の結果、自然とよく使われるものに集約されて現在のものになった(古田、一九七四)、㈡前代から収斂傾向にあったが、その結果現代のものにいたったわけではなく、この収斂にはいろは仮名が係わっているようである(浜田、一九七九)、という二通りの理解があった。その後の研究の進展は、㈡を支持するものが多い。たとえば、永井(二〇〇六)は江戸期全般の女子用往来物の字体数の時代的変遷をたどり、江戸時代後期において字体数がゆるやかな減少傾向にあったことを示しているほか、銭谷(二〇一〇a)も明治時代の文芸資料を取り上げて、明治二十年代から明治三十年代にかけてしだいに字体数が減少してゆくことを示している。これに対して、矢田(二〇〇八)は、江戸時代の文芸資料において、字体数においても前期と後期とで差がない資料があり、また所用字体においても入れ替わりがあって浜田(一九七九)が主張する単純な字体収斂が認められないことを示した。永井(二〇〇六)の認める字体数の減少傾向というものも、百十前後であったものが九十前後になったというものであって、浜田(一九七九)の述べる収斂傾向とは一致せず(百十→六十五)、やはり、単純な字体収斂を前提とするのには慎重となるべきであろう。

あらためて先行研究を振り返ると、活版において用いられた字体はそれまでのものとは異なる傾向にあって(銭谷、二〇一〇a、b)、明治時代内部の変化のすえに現代の平仮名につながる字体体系へといたることが窺われる。この観察のもとにあらためて注目されるのがいろは仮名である。いろは仮名研究史からは、浜田(一九七九)は、いろは仮名と現代の文字との接点を説いた日下部(一九三二)、山田(一九三七)、春日(一九四一)に続く。その影響のもとに宇野(一九九三)と矢田(一九九五)の研究がなされ、現代の平仮名との関係の重要性が明らかにされる。いろは仮名の固定性については、浜田(一九七九)にわずかながら言及されるが、そのほかは字野(一九九三)や矢田(一九九五)まであまり重視されず、むしろ、日下部(一九三二)や春日(一九四一)では、いろは仮名のうち、「え」・「お」・「そ」がいまだに現行のものになっていないことに焦点があった。

これは、平仮名史研究としても、仮名の異体への注目が、安田(一九六七、一九七一)などの論攷まで盛んでなかったことも理由のひとつにはあろうが、いろは仮名が、中世前期の主用字体をその基盤とし、江戸時代の主用の仮名とずれを生じていたことも挙げるべきであろう。いろは歌は、あくまで教育の最初に用いられる教材であって、いろは仮名がそののちの文字生活の基礎となる文字とは限らなかったのである(矢田、二〇〇七)。ゆえに、日下部(一九三二)などが注目した「え」・「お」・「そ」は入れ替わってしまったのであり、いろは仮名が明治時代の教科書において主用される地位にいたったことは、このことのみで前代の慣用と異なる、注目に値する現象なのである。銭谷(二〇一〇b)に示されるように、民間の活版印刷では、いろは仮名への統一はかならずしも徹底されるものではなく、「字体数の収斂」という点についても、このような観点から検証されてゆくべきものと考える。

Jan 04

whym:

『活字紋様見本』 〔東京〕:印刷局活版部,明18

whym:

『活字紋様見本』 〔東京〕:印刷局活版部,明18

Nov 03

shi シ An auxiliary suffix to the root of verbs derived from the sub. verb su or suru, forming the pret. tense: mi-shi hito, the person who has seen; kaeri-shi hi, the day on which he returned; eda kara chiri ni shi hana, the flowers that have fallen from the branches; yukishi, has gone.

(2) A particle without meaning, used in poetry, or ancient composition, for the sake of eupohony, or to complete the required number of feet: matsu to shi kikaba, if I hear that you are waiting; also, in ori shi mo, koro shi mo.

(3) A predicative or final adjective suffix as: takashi, it is high; omoshi, it is heavy; karushi, it is light.

(4) Used also as a present particle: hi ga oi-oi mijikaku naru-shi, the days are becoming shorter and shorter; oi-oi geppaku ni wa naru-shi, the year is gradually drawing to the close.

(5) = and, as: awai no mono aru shi akai no mo aru.

” — J.C. Hepburn. 1886. A Japanese-English and English-Japanese Dictionary. 3rd ed. Tokyo: Maruzen.

Oct 18

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Jun 23

“◎促音仮名 ここに,また,促音を書きあらはすべき仮名あり。文字は,五十音中の多行第三列の仮名を借りてあてたり。即ち,左の如し。
  片仮名 ツ 平仮名 つ
こを書きあらはすに,通例は,もって[引用者註:二重傍線](以)うって[同](打)かって[同](買)あって[同](逢)もらって[同](貰)とって[同](取)ほっす[同](欲)とやうに,小字にて書きて,通常のツ[二重傍線] つ[二重傍線]と,区別を明かにせり。
◎引音仮名 ここに,また,引音を書きあらはすべき仮名あり。こも,別に,文字あることなく,五十音中の阿行第三列の仮名をかりてあてたり。即ち,左の如し。
  片仮名 ウ 平仮名 う
即ち,詞には,まうけ[引用者註:二重傍線](設),まらうど[同](客人),字音には,かう[同](考),とう[同](東)などの如し。この外に,詞のあふ[同](逢),かふ[同](飼),字音のあふ[同](鴨),かふ[同](甲),などのごとく,フ[同]を用ゐるものもあれど,そは,皆,う[同]に転呼したるに過ぎざれば,別に,ここには挙げず。輓近にいたり,西洋訳書などの,引音仮名に,ー[同]の音標を書き用ゐること始まりたれど,いまだ,普通には行はるるにいたらず。” — 落合直文「語法摘要」『国書辞典』大倉書店,1902

Mar 09

“題して「国語学要説」という。(中略)そういう意味では、それは、一個の„国語学概説“である。そして、それは、既成の国語学のかなりすぐれた鳥瞰図になっているであろう、とにかく„国語学“というものがあるかぎり——。もっとも、„国語学“というものが、わたくしにとってはじつは、かなりぬえ[ぬえに傍点]的なものにしかおもわれないけれども、しかし、それはそれとして、これだけ見わたしのゆきとどいた書物は、書けといわれたら、やはり、わたくしには書けまい。それは、能力においてのみならず、勇気の点からもである。もし、いわゆる„国語学“の全領域を的確にまんべんなく見わたせるそんな能力は、こんにち、だれももっていないであろうとすれば、必要なのは、まず勇気である。学者としていたずらに慎重なばかりが、その能ではない。したがって、この書のばあいには、著者のすぐれた才幹(それは、他で大いに発揮されている)に対して以上に、その勇気に敬意を表すべきである。それによって、せめて、学者のもつべき勇気に対してすすんで敬意をささげるだけの、そのような勇気を、わたくしはまた、わたくしとして、わたくしなりに、もちたい。全体を通じてあやまりや問題がしばしば見いだされるくらいのことで、著者の勇気の価値がただちに動揺することにはならない、いちいちに問題点を指摘するにはその量が多すぎる程度にそれがあるとしても。” — 亀井孝。書評・紹介: 築島裕『国語学要説』。『言語研究』42 (1967): 47-57。pp. 48f。

Oct 08

“A number of ideas from later work in generative semantics have been incorporated into cognitive linguistics, Head-Driven Phrase Structure Grammar (HPSG), Construction Grammar (and indeed into mainstream Chomskian linguistics, often without citation).” — Generative semantics - Wikipedia, the free encyclopedia

Sep 17

“文学史上の有名作品から言語史研究の方向に導かれてゆく〔国語学〕研究者がかなり多かったことは事実である。きわめて俗なことをいえば、文学青年がみずからの才幹のとぼしさに気づいたとき、また文学創作における一種のむなしさに想到したとき、またなお、文学周辺に恋々として未練の情をすてきれないとき、一転してことば〔ことばに傍点〕をもてあそぶことに甘んずるような、一つの因習があったといってよいかもしれぬ。国文学科という名の、大学の文学部の一学科のなかに、国語学専攻なる一分派がみとめられているのは、あるいは、そのような志うすき人びとを救済する、待避壕のごとき役割をみとめるためかもしれない。” — 山田俊雄(1976/2008)「文献学の方法」亀井・大藤・山田編『日本語の歴史』別巻「言語史研究入門」。pp. 369f

Aug 05

On a Translation with Loan Word

友人にこんなことを訊ねられた——「日本語で、ある文章なり単語を「英語のまま」「漢字にする」「カタカナ化する」という方法の特徴(メリット・デメリット)を説明しているのってないかなぁ・・・」 (Twitter / 青子守歌: 日本語で、ある文章なり単語を「英語のまま」「漢字にす …)

よくよく聞くと,英語文書を和訳するうへで,どう訳すか迷ってのことらしい。

以下,簡単にまとめてみよう。

まづ,このやうな選択がどのやうな語で問題になるのか考へておかう。たとへば,gus stationを訳すとき,gus stationや,ガス・ステーションとすべきばあひはあまりないだらう。

このやうに,語によってさまざまに条件は変ってくる。和製英語が人口に膾炙してゐる語では,まづ原語のままにはできないことはあきらめておくべきであるし,ストライクをよしと唱へるたぐひもまたできない。いくら美を認めるからと言って,Chineseをからびとと訳してゐては時代錯誤である。

さうすると,結局既存の表現を尊重するのがよいこと,いままで自分がどういふふうに訳してきたかが鍵を握るといふことが分るが,以下,訳すか,訳さないか,訳すとしたら,和語・漢語・カタカナ語のどの語彙範疇を選ぶか,考へてみたい。

訳すか訳さないかについて考へる。

読者にとって,訳してあるメリットはなにか,といへば,頭を切換へずに済む,意味を探りやすいといふのがある。一方で,訳してあることによるデメリットも当然ある。意味が適切な訳語を選び得たとして,それが曲解を招きやすい表現だったり,辞書以外で出てきさうもない語彙ではしかたがないし,そもそも適切な訳語がないことも多々ある。African languagesを,アフリカン・ランゲージズと訳すよりかは,アフリカ言語とするのがふつうだらうし,software technologyであれば,ソフトウェア技術でも,ソフトウェア・テクノロジーでもさしたる違和感はあるまい。

訳さないメリットは,デメリットの最たるものである伝はらない可能性がないなら,いちばん伝へたいことがらを損ねずに伝はることにある。pluralityといふ概念があるが,これを複数性と訳すと,文法用語のpluralとの関連性が薄れてしまふ。そこで,pluralityとそのまま書くことはしばしばあることのやうに思はれる。もちろん,これは,複数性pluralityと併記することでデメリットも軽減できよう。dyslexiaのやうに,正確性を重んじて読字障碍などと訳しても,分りにくさの低減に貢献しないから,ディスレクシアといふ表記が通ることもある。

ただし,語に機能語——たとへばabout, for, byなど——が含まれるときは,すくなくとも機能語に限っては翻訳することを検討すべきである。ボウリング・フォー・コロンバインなどの例外もまたあるけれども。

ついで,訳すとして,どこから語彙を選ぶかといふことがある。

まづ,漢語であるが,漢語に訳す利点は,ひとびとが理解できる語彙に含まれる漢語は数多く,それを組み合はせることで,理解への障壁を下げる効果が期待できることである。stakeholderを,ステークホールダーと訳すよりも,利害関係者と訳すほうが,——ニュアンスの差はあれ——分ってもらひやすい。

漢語の弱点は,英語の派生と漢語の派生は構造が違ふため,一貫した訳語を作れないことがあるといふことにある。reasonとreasonableを,わかりやすさと一貫性を両立して訳すのはおそらく困難だらう。

和語についても考へてみよう。visionといふ語があって,視界だとか,展望だとか,ヴィジョンだとか訳されたりする。しかし,これらの語は,意味が強すぎると思ふときは,和語にすることを考へてみるとよい。visionならば,目のまへだとか,目指すところ,見渡すと,などと訳せる。また,ちょっとふるめかしい語であれば,逆に強調するのに使ひやすい。rogue flagは,紅旗でもいいだらうが,くれなゐの旗でもまた意味を乗せやすい。

つぎにカタカナに訳すといふことを考へる。OLPCといふのがある。One Laptop per Childといふ運動だが,ワン・ラップトップ・パー・チャイルドとするよりかは,こどもに一台のラップトップをとでも訳すほうがよい。このやうに,単語レベルでのみもとの表現を訳さずに残したり,和製英語を使ふばあひをカタカナに訳す,と考へよう*。このばあひの利点は,もとの表現に手をつけないから楽だ,といふのがある。1対1に等しい和製英語があるときも,同じことが言へよう。hospitalityのやうに,うまく訳せない語も,音訳でホスピタリティとしてしまふことはよくある。

このばあひ,難点はといへば,日本語でない語を説明するのはむづかしいといふところに尽きよう。なじみがなささうな語であって,英語でも難しいのであれば,不正確さを覚悟してちかい表現を探すほかない。

* 脆弱性venerabilityをヴェネラビリティとしようがvenerabilityとしようが分りにくさには変りないから,前者も訳さない場合と等しい。……,脆弱性を大学生ごろまで読めなかったのを思ひだした。

結局,英語とても200年の交流の歴史があって,そんなにはっきりした優劣はなくなりつつあるのであるが,漢語の抽象性はいまだ捨てるに及ばないものがあり,適宜使ひわけてほしい。